所沢点描、テセウスの船と女子高生とハルさん

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▽テセウスの船というパラドックスを知った。難解な哲学の本でも読んだのかと思われるかもしれないが漫画である。



女子高生のご主人としゃべる柴犬のハルさんが人類の滅びた世界を生きる、それでいてほのぼのした漫画で、ツイッターの投稿で人気だったらしい。犬がしゃべったり宇宙人が普通に出てきたりする不思議な世界観の漫画だ。面白いことに柴犬はぬけていることも多いのだけど、知的な、哲学的な問答をする。そしてその中で出てきたのがテセウスの船のパラドックス。

船を少しずつ 新しい部材に交換していくといずれ最初にあった部材は1つもない船が出来上がる。その逆に交換した部材で新たに同じ船を作る。さて、どちらが本当の船なのか。これを柴犬のハルさんをブラッシングした毛でハルさんができそうだ、なんて話なのだけど面白い問いだ。

別の視点なのだけど動的平衡から自分という存在とはどういう存在なのかを以前考えていた。テセウスの船と同じように我々生物の細胞は日常的に入れ替わっている。生まれたときの私、中学生のときの私、二十歳のときの私、そして今の私は厳密に言えば別人なのかもしれない。けれど私は私だ。そう思いつつ私ではないような気もする。決定的な解があるわけでもなく、もやもやと考えるしかない。

なぜ私が地元の自然を撮り始めたのか、撮り続けているのかにも繋がってくる。この林を先祖たちも見ていたとふと思ったとき、林は特別な存在に変わった。これも厳密に言うと同じような景色であっても木々は移り変わっているのだからまるで違う。けれどやはり林は林だ。表現者としては何かコンテクストがいるような気がするけど今はない。